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雑誌『未來』1999年10月号掲載

ウェーバー的問題の今日的意義
――シンポジウム「マックス・ヴェーバーと近代日本」に向けて――

橋本努(はしもとつとむ)
(政治思想/北海道大学)

1.ウェーバーによる刻印


 かつてウェーバーは学生たちに対して、次のように述べたことがある。「現代の社会科学者の誠実さは、そのニーチェとマルクスに対する態度によって測られよう。……われわれが生きている世界は、ニーチェとマルクスによって深い刻印を打たれた世界なのだ」と。この一節に付け加えて言えば、今日のわれわれの世界はさらに、ウェーバーによって深い刻印を打たれていると言えるだろう。近代化論をはじめ、ウェーバーの議論はさまざまな分野の古典的な位置を占めている。それだけでなくウェーバーの生き方は、それ自体が現代を生きるための「一つのモデル」として、今なお人間学的な関心を引きつけている。八〇年代におけるポスト・モダンの潮流がバブルとともに去った現在、われわれが真摯に学問を営むことを志すとすれば、ウェーバーから再出発するということが、一つの正統な意義をもって立ち現れてくるであろう(橋本直人「ウェーバー研究は何を求めているか」『哲学の探求』[1993]参照)。
 ウェーバーの重要性は、しかし、ある意味で日本における社会科学の特殊性に根差している。それは例えば、一九八四年以降の新しい『ウェーバー全集』の初巻の約三分の二が、日本において購入されたという点からもうかがえる。残りの三分の一は他の国々において購入されたのであろうが、ドイツ本国で購入された『全集』の量は、全体の六分の一にも満たないかもしれない。とすれば、極めてドイツ的であると思われているウェーバーの世界は、実際にはドイツよりも日本で受容されたのであり、日本のウェーバー研究は現在、世界的にみて最高水準に達しているとも考えられる。
 こうした事情は、日本のマルクス研究が世界的にみて最高水準に達したという事情と並行して理解することができよう。日本における社会科学の中心課題は、社会科学の古典を一種の「カノン(canonical text)」として位置づけることによって、近代化の精神的支柱を備給することにあった。つまり社会科学の課題は、たんに社会をよりよく理解するというだけではなく、社会を近代化するために必要な人格的美徳を陶冶することにあった。そしてその支柱は、他ならぬマルクスとウェーバーによって提供されてきたのであった。もっとも最近では、マルクス研究はさすがに陰りをみせているが、これに対してウェーバー研究は衰えをみせていない。九〇年代に日本で出版されたウェーバーの研究書だけでも、すでに七〇冊にせまる。またウェーバーの翻訳も、新たに一〇冊程出版されている。さらに現在、ウェーバー研究を志す大学院生の数はますます増加しており、今年の日本社会学会大会では、ウェーバー部会が例年になく二つ開かれるという。いったい、いまなぜウェーバーがこれほどまでに注目されているのだろうか。

2.近代の〈たそがれ〉か?


 日本における『ウェーバー全集』の売れ行きに関心を示したドイツのW・シュヴェントカー氏は、日本のウェーバー受容とその影響について包括的かつ緻密な研究を開始し、その成果を著作『日本におけるマックス・ヴェーバー』(1998)として昨年刊行した。この本は専門家の間で大きな注目を集め、最大の賛辞を得たが、というのも研究者たちは、日本におけるウェーバー受容史についてそれほど多くを知らなかったからである。シュヴェントカー氏によってわれわれは、日本の研究事情までドイツに学んだわけであり、日本における学問的成果の批判的継承を重視するという学問作法に照らすならば、このことは猛省に値するだろう。
 もとよりシュヴェントカー氏の問題関心は、「ドイツ人は日本のウェーバー研究から何を学びうるのか」という点におかれている。しかしこの関心を拡張して、「日本人は日本のウェーバー研究から何を学びうるのか」、また「世界は日本のウェーバー研究から何を学びうるのか」という問題へと展開することができるし、またそれだけの価値がある。氏の研究によって、これまで学問的途上国の特殊事情と思われていたウェーバー研究は、いまや世界に向けて発信しうるような、重要な知的文脈を獲得したと考えられるからである。ウェーバー全集の売れ行きからすると、ある意味でウェーバーを論じてきた文脈の主流は、日本にあると言っても過言ではない。日本におけるウェーバー研究の特殊性は、それを逆手にとれば、輸出しうるだけの知的成果となりうるのである。
 こうした文脈観の転換を受けて、われわれは、ウェーバーとウェーバー研究の成果をもう一度見直さなければならない。ごく簡単にまとめるならば、日本におけるウェーバー研究は、およそ次のような経緯をたどった。まず一九〇五年から一九四五年の四〇年間は、ウェーバーの紹介が中心に受容され、続く一九四五年から一九六五年の二〇年間は、大塚久雄、丸山真男、川島武宜らによって、いわゆる「近代主義」的な受容と創造が始まった。そして一九六五年から一九七〇年の五年間(およびその前後)は、さまざまな成果が収穫され、ウェーバー研究のある種のピークを迎えることになる。一九七〇年代以降になると、近代的なるものへの懐疑から、今度は逆に「近代への批判者」としてのウェーバー像が探求され始める。この時期から現代に至るまでの研究は、大塚久雄のウェーバー理解が圧倒的な知的ヘゲモニーをもってきた戦後の日本社会を、なんとか相対化しようとする点に共通項を見いだすことができよう。「禁欲エートス」を日本の戦後復興とその後の高度経済成長に重ね合わせてきた日本人は、とりわけバブル経済の崩壊によって、「勤労の美徳」や「経済成長第一主義」といった価値観に対する根本的な反省を迫られている。こうした現実に対応するのが、七〇年代以降のウェーバー研究の課題である。
 なるほど大塚久雄の世代は、ウェーバーの近代的な精神を積極に解釈し、これを日本の現実に持ち込むことができた。しかし折原浩や山之内靖らの次の世代は、そうした近代擁護への反発から、ウェーバーの中に近代性とポスト近代性の両方を読み取り、その狭間において自身とウェーバーを位置づけた。ウェーバーは、近代のたそがれ期に現れたというのが、この世代のウェーバー解釈の特徴である。では、さらに次の世代は、ウェーバーをどのように読むのだろうか。近代とポスト近代という単純な二分法によって時代を解釈すべきではないとか、近代を批判する観点を他の文化視座に求めるべきだ、といった議論になるだろうか。例えば矢野善郎氏によれば、従来のウェーバー理解は、ウェーバーの歴史観のなかに「合理化過程」を読み取り、世界の脱魔術化と官僚化の傾向を不可避のものとみなす傾向があった。しかしウェーバーは、さまざまな種類の合理化を論じており、「合理的であること」を相対化するような分析装置を用意している(矢野善郎[1997]「マックス・ウェーバーの二重の方法論的合理主義」『社会学史研究』no.19.)。したがって、ウェーバーとともに単純な近代化傾向とその後の「たそがれ」を歴史に読み取ることは誤りである。近代批判者たちは、なるほど近代を相対化することに成功したが、しかしそのような時間的な相対化それ自体が、ウェーバーによって相対化されるかもしれない。

3.ウェーバー読解への注視

 いずれにせよ、ウェーバーは今後も、時代の傾向を読むための重要なカノンでありつづけることは間違いない。振り返るならば、戦後日本の社会科学においてウェーバーがカノンとされたのは、まさに日本における近代的な精神を陶冶する際の、知的権威としてであった。しかし、そうした近代化の精神を批判する場合に、ウェーバーが批判されるというよりも、むしろ既存のウェーバー「解釈」が批判され、ウェーバーは逆に近代への批判者として、新たに再カノン化されることになった。つまり、ウェーバーというカノンは、それを批判する観点からもカノンとして保持されたのであった。カノンを批判する観点を他ならぬ同じカノンが提供するという事態は、まさにわれわれの世界に刻印を打ったというに値する。その意味でウェーバーは、これから何度も「読み直し」と「再規定」を呼び起こすだろう。
 この点において重要なのは、折原浩氏の最近のウェーバー研究である。それはウェーバーのテキストを完全なものとして復元することをめざしているのであるが、単なる文献学的研究として位置づけられるべきものではない。むしろ、日本の社会科学がもつカノンをより強固なものとすることによって、その正統性と学者のアイデンティティを深いところで基礎付けるような、そうした中心基盤を形成するものとして評価されなければならない。
 ウェーバー読解がいかに気迫に満ちた営みであるかについて知るために、ここで、雑誌『未来』において戦わされた折原浩−山之内靖論争(1997年9,10,12月号)に触れておきたい。この論争は、「学問研究におけるフェア・プレー」とか「ウェーバー社会学研究のパラダイムチェンジ」といった大きな問題をめぐって議論されており、両者の挑発的な論争スタイルもあってか、大きな波紋を呼んだ。具体的な内容はともかく、ウェーバー研究に対する両氏の情熱とその気迫は、並大抵のものではないことが分かる。折原氏の主眼は、そもそもウェーバー研究を超える射程をもつ。すなわち、人文・社会科学では、古い論点が装いを新たに繰り返し登場するだけで、学問研究の内実ある研究が連続的に蓄積されていかない、むしろそうした着実な営みを攪乱してしまう、という危惧がある。学問におけるこうした一般的傾向を批判することが、山之内氏に対する問題提起だというのである。これに対して山之内氏の問題提起も、同じくらい大きい。すなわち氏によれば、ウェーバー著『古代農業事情』の改定作業から「祭司 対 騎士」という対立軸を読み解くことが、ウェーバーの全体像を提供するだけでなく、「近代の社会科学全体を問い直す契機へとつながる」というのである。両氏の問題提起は、専門研究者同士の内輪の争いといったものではなく、社会科学者の任務と社会科学全体のパラダイム・チェンジに関わる重要なものとして提起されている。両者の研究がもつ気迫は、日本における社会科学全体の中心課題を背負い込むという英雄的な問題関心から発している。

4.シンポジウムにむけて


 こうした気迫が生まれるのは、多くの社会科学者にとって、ウェーバーが学問のシンボルとして存在しているからであろう。大塚久雄から嘉目克彦に至るまでのウェーバー研究は、その中心において、「ウェーバーはどのような人格理念を生きたか(あるいは理想としたか)」をめぐって論じられてきたが、その背後には、「社会科学を営むことによって、どのような人格を陶冶することができるのか」という、いっそう根本的な問題が想定されている。ウェーバー研究者たちはこの根本問題に対して、「私はこのような人格理念がすぐれていると思う」と答える代わりに、「ウェーバーはこのような人格理念を重視した」という具合に応答してきた。つまり、自分の価値観点を前面に押しだす代わりに、それをウェーバーに託して応答してきたのであった。その応答は、「私にとってヴィッセンシャフトとは何か」、「ヴィッセンシャフトを志す私とは何者か」という問題への応答であると同時に、「近代日本における社会科学の理念とは何であるべきか」という問題に対する応答でもある。日本における近代化、近代化された日本の社会的諸課題、近代の日本社会に対する理解と変革の可能性、日本におけるモダニティの受け止め方、……こうした問題を社会科学はいかに理解すべきか。ウェーバーおよびウェーバー研究史は、学者のアイデンティティと日本社会の関係を考える上で、重要な素材を提供している。
 以上のような諸問題は、しかしさまざまな論者たちによって、ぜひとも「再定式化」されなければならない。そしてウェーバー研究の意義が、次世代に向けて語られなければならない。そこでわれわれ橋本直人・矢野善郎・橋本努の三人は、日本におけるウェーバー研究者たちに呼びかけて、下記のようなシンポジウムを企画した。シンポジウムでは、「マックス・ヴェーバーと近代日本」というテーマの下に、「現代におけるウェーバーの意義は何か」、「ウェーバー読解とはいかなる意義をもちうるのか」、「日本が誇るウェーバー研究とは何か、そして継承すべき重要な問題とは何か」といったさまざまな問題をめぐって討論する予定である。もっとも以上の問題提起は、シンポジウムの主旨全体をカバーしてはいない。シンポジウムでは、各論者の自律的な問題提起を尊重し、世代間交流を通じて、複数の声からなる現在を、未来に向けて交配させることに主眼がある。当日はフロアを含め、活発な討議を期待したい。

※社会科学がいかなる人格を陶冶しうるかについて、私の問題提起は、拙著『社会科学の人間学――自由主義のプロジェクト』(勁草書房、一九九九年)に詳しく述べた。参照していただければ幸いである。


シンポジウム「マックス・ヴェーバーと近代日本」のお知らせ

  1999年11月27日(土)・28日(日)
  於: 東京大学 文学部(本郷)

ヴェーバーの影響力とは何であったか。また今後、私たちはヴェーバーとどのように向き合っていくべきか。このシンポジウムでは,「マックス・ヴェーバーと近代日本」という共通問題をめぐる対話を通じて、広く問題を起こすことをめざしています。日本の社会科学がもたらした知的成果を21世紀に向けて継承するために、世代間交流の場となることを希求します。予定されている討議と部会、報告者は次の通りです(敬称略)。

●11月27日(土)
 10:00-13:00
 討議「マックス・ヴェーバーと近代日本」
         上山安敏・富永健一・山之内靖
14:30-17:30
 「政治」部会   雀部幸隆・佐野誠・橋本努
「資本主義」部会 大西晴樹・佐久間孝正・橋本直人

●11月28日(日)
 10:00-13:00
 討議「日本のマックス・ヴェーバー研究の過去・現在・未来」
         折原浩・姜尚中・嘉目克彦
14:30-17:30
 「理論・思想史」部会
         牧野雅彦・向井守・矢野善郎

専門的な研究者に限らず,様々な方面の方々に御参加下さいますよう、お待ち申し上げます(参加の事前申し込み等は不要です。参加費は無料ですが、実費として配布資料のコピー代をいただきます。)なおシンポジウムの詳細は,ホームページ http://www.L.u-tokyo.ac.jp/~yano/sympo.html をご覧下さい。またお問い合わせは,東京大学の矢野(03-5841-3877 email: yano@L.u-tokyo.ac.jp)まで。(企画:橋本努・橋本直人・矢野善郎)


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